2011年9月10日土曜日

「民のかまど」※日本書紀より私訳

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仁徳天皇四年の2月6日、天皇、群臣に詔をして曰く
「高台に登って国を望むと、国内から煙が登っていない。思うに、民はもうまったく貧しく、炊飯できるほどの食料も家にないのではないか?…こういう話を聞いたことがある。"良き君主の世には、人々は歌を歌い、家々もやすらか"という歌が古の世にあったと。今、朕は国政にあたって3年になった。歌声は聞こえてこない。煙もまったく登っていない。つまりは、五穀が実らず、民は窮乏しているのだ。畿内ですらそうなのだ。他の国では言うまでもなかろう。」

同年3月24日、詔して曰く
「今より以後、三年に至るまで、全ての庸調(課税)、労役を免除し、民の苦しみを取り除くのだ」と宣った。
この日から、破れてボロボロになるまで衣服や靴をつくらせず、腐っていない食料は取り替えず、宮殿の塀や屋根が崩れても修繕しなかった。風雨が隙間に入り、衣服を濡らした。屋根から覗く星々が、床をあらわにした。
こののち、天候も季節に従い、豊作となった。三年の間、民は豊かになった。民は日々の暮らしを謳歌し、炊飯の煙も立ち上るようになった。

仁徳天皇七年4月1日、天皇は高台から遠くを見渡すと、煙がたくさん登っていた。この日に皇后に語って曰く、
「朕はすでに豊かになった。心配することは何もない。」
皇后は答えて曰く、
「何をもって豊かになったというのですか」
「炊飯の煙が国中に登っておる。民が豊かになったということだ」
「塀は崩れ、宮殿は壊れ、屋内でも衣服が雨に濡れる始末。これのどこが豊かになったというのですか」
「天が君主を立てたのは、民のため。君主というのは、民があっての存在なのだ。古の聖王は、民が一人でも飢えたり寒さに凍えたりしたときには、政策を見直し、自らを責めたという。現在において民が貧しいということは、朕もまた貧しいということ。民が豊かになれば、朕もまた豊かになるということなのだ。この世で今だに、"民が豊かになって君主が貧しい"ということは、存在していないのだ」

同年9月、諸国の民からこのような申し出があった。「税も労役も免除になってからもう三年になります。宮殿は朽ち、政府の蔵はカラになっています。今は我々も豊かになり、道端の落し物をさらっていく者もおりません。里ではみな家族を持ち、家に蓄えが充分できるほどになりました。もしここで我々が税を払わず、宮殿を修繕しなければ、罰があたってしまいます」
それでもなお、天皇は税を免除し続けた。

仁徳天皇十年の10月、免税から6年後にして、天皇ははじめて税・労役をお命じになり、宮殿を再築した。民は誰からも強制されることなく、老いも若きも協力し、材木や土籠を背負った。昼夜をいとわず競って働き、程なくして宮殿は落成した。このゆえに、仁徳天皇は現在まで「聖帝」と呼ばれ、讃えられている。


参考

岩波書店(刊行)[1967]『日本書紀 上』日本古典文学大系 67,pp.390-392.

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