2011年11月26日土曜日

深井英五「日本銀行の国債引受と財政経済」

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深井英五(1938)「日本銀行の国債引受と財政経済」
http://hdl.handle.net/2433/131181
について、[旧漢字・旧仮名遣い]から[新漢字・新仮名遣い]への修正をし、打ち直しました。




京都帝国大学経済学会
經濟論叢,47巻6号,1938.

時論

日本銀行の国債引受と財政経済

深井英五


目下我が国における財政経済上の問題は多岐多端でありますが、今日は時間に限りがありますから、重点をひとつに定めてお話しをいたします。

国債の発行はいずれの時においても財政経済と重要の関係を持つものでありますが、現在の我が国においてはその関係が殊に濃厚であると思います。一般時局の重大なるがためでもありますが、国債の発行が日本銀行引受の方法によってなされることが、その財政経済との関係を一層微妙重要ならしめる理由であると思います。

しかるに国債の大部分を、現在の我が国のごとく発券銀行の引受によって発行するということは、従来いずれの国においてもあまり例のないことであります。それで普通に経済学の教科書で教えられることは端的直接に現在の事態に当てはまらない点があります。根本の理義の淵源する所は一に帰するのでありまして、私は従来の経済学が破産したというような見方には賛同致しません。ただ実情の変化に応じて適用を異にするのであります。私が今日ご参考に供したいと思うことは、国債発行と財政経済との関係につき、普通に経済学が教えるところの理義を発券銀行引受の場合に適用するに過ぎませんが、いささか体験によって得るところもありますので、もっぱら外部からの観察による帰納、演繹の結果を待つよりもいくらか近道であるかもしれないと思うのであります。

従来の例によりますと、最も普通なる国債発行の方法は募集であります。応募者は金融機関を主とすることもあり、広く法人、個人に及ぶこともあり、また一般に応募者を求めることもあり、特別に応募者たるべき方面に向けて相談することもありますが、要するに発券銀行の通貨発行権を直接に利用せずして、国民のどの方面にかすでにこれに存在するところの応募力を利用するものであります。経済学の教科書では、概して国債は募集されるべきものと前提して、その影響等を説明しているようです。しかるにその前提が違ってきたから、端的に実際には当てはまらないのであります。理義の変化ではない。前提の変化であります。その変化した前提から根本の理義をたどって新たなる適用を演繹するのが活きた学問であろうと私は信じるのであります。

国債発行の普通の方法は、発券銀行の通貨発行権を直接に使用せずして公衆の応募を求めるのでありますが、その応募を容易ならしめんが為に、発券銀行が金融市場を調整することはしばしば行われる手段であります。そのためには幾分か通貨発行権を使用することもあります。それゆえに私は直接に通貨発行権を使用せずと申したので、全くこれを使用せずというのではありません。また募集の成績が充分でない場合に、発券銀行がその一部を引き受けることもあります。これを金融市場の用語では背負込みと言うのであります。この場合には、発券銀行の通貨発行権が直接に国債発行のために使用されるに違いありませんが、根本の建前は募集を発券銀行は概してその小部分を引き受けるにすぎませんから、そのため格別大きい影響は起こりません。また戦争等のために財政が行き詰まり、国債に対する信用が失墜した場合に、発券銀行が必要なる国債の全部または大部分を引き受け、かつ保有した例も少なくありません。この場合における通貨に対する影響は政府紙幣の乱発に類似するものであります。以上のごとく、募集を建前とする国債の発行、および財政行き詰まりの結果たる発券銀行の国債引受については、経済学の教科書等に実例および解説が挙げてあります。多少見解の差異はあっても、大体において通念が出来ているようです。

しかるに昭和7年以来の我が国の実情はそのいずれにも該当しない。それなのに、前提の事実を異にするところの通念をもって手っ取り早く片付けようとするから、あるいは不可解だと言ったり、あるいは認識の錯誤を生ずるのであろうと思います。現在我が国における国債発行の方法は、募集を建前とするものではありません。主として日本銀行の通貨発行権を直接に使用するのであります。しかしながらそれは財政行き詰まりの結果だというべきではありません。ただ一応日本銀行に引き受けさせるという趣旨でありまして、日本銀行は国債を引き受けてこれを保有するのではなく、一旦引き受けたところの国債を金融機関その他国民一般へ売却するのであります。その売却のできることをこの頃の言葉で国債の消化というのであります。その消化が今日に至るまで実際順調にできております。すなわち国債に対する信用は維持されております。それだから決して財政の行き詰まりではありません。通貨発行権を使用して国債を発行するから、これすなわち財政の行き詰まりだと一足飛びに結論するのは、前提の差異を顧みずして概念に囚われたものであります。一旦引き受けておいてこれを売るというところに我が国債発行方法の特色があり、それが主に実行されてきたのだから、この事実を前提として理義を明らかにしなければならないのであります。

そこで、いかなる事情のもとに、この国債発行方法が案出されたかというに、いわゆる金解禁の末期および昭和6年12月における金輸出再禁止の直後、我が国は一時金融梗塞の状態に陥りました。これは解禁に伴う為替思惑のために約6億円の正貨流出があったことを主たる要因とするものであります。我が国の主たる通貨たる日本銀行券発行高について言えば、解禁の前年たる昭和4年の平均12億6700万円より昭和6年の平均10億4400万円に下がりました。通貨の収縮が金融梗塞の一原因でありました。他方金解禁に伴ういわゆる緊縮政策のために、国民の消費は減退し、世界戦争後拡張発達に向かった諸種の生産設備はその全能力を発揮すべき機会を得ずして財界は萎靡(いび:なえしおれること)に陥ったのであります。この時において、もはや金本位制維持のために緊縮政策を続ける必要がなくなっていたから、通貨を増発して金融の梗塞を解き、一般購買力の増加と産業の運転流通を図ることが望ましかったのであります。しかしながら萎靡した財界には妥当な資金の需要が容易に起こりません。相手を選ばなければ借り手はいくらでもありますが、日本銀行はむやみに資金を放出するわけに参りません。この情勢とあたかも時を同じくして、昭和6年9月に満州事変が起こった結果として政府は国債発行により資金を調達するの必要に迫られました。金融梗塞の時でありますから、募集は全く不可能でもないが、すこぶる困難でありました。ここにおいて日本銀行が国債を引き受ければ、政府は必要な資金を楽に調達することができますし、政府がこれを使用し、散布するに従い、通貨の発行が増加して金融の梗塞も解ける。一般購買力も増加し、必要な産業資金の流通もできて、財界回復の端緒も開ける。すなわち一挙両得の策でありました。而して金融梗塞の解けるまでは日本銀行で引き受けた国債を買おうというものもなし、日本銀行の方で売ろうともせず、したがって通貨の発行が政府資金の散布によって増加していったのであります。昭和7年の年末に近づき金融は著しく緩和し、一時懸念された年末資金の手当も順調に早くできたので、金融界において余剰資金をもって、日本銀行から国債を買い受けようとする気分が発生しました。日本銀行はこれに向かい、市場の一般状況と買い受け希望者の金繰の模様を察しながらボツボツ国債を売り出しました。これが世間でいう所のマーケット・オペレーションなるものであります。その後この方法による国債の発行および売却はひき続いて行われ、今日に至っております。日本銀行の国債引受により政府に提供された資金が政府の支出により散布され、通貨発行高は増加に傾く。それで産業資金その他諸取引のために生ずる通貨の需要を充たし、なお余りあるときは金融界に遊資を生じ、それが日本銀行からの国債買受けに向けられるときは、通貨発行高は減少に傾く。この作用がほどよく連続したゆえに、金融は緩和し、産業資金の供給は豊かになり、その間産業の利潤による預金の増加も伴うがゆえに金融はますます緩和したのであります。さりとて、日本銀行の国債売却による通貨収縮の途もあるがゆえに、金融市場に過度の遊資を残すこともなく、通貨発行高は経済上の需要を満たす程度に徐々増加したのみで甚だしき膨張を起こすに至らなかったのです。

昨年支那事変の起こりました後は一挙に数十億円の経費増大を来たすことになりましたから、これを支弁するために国債を募集するということでありましたならば、おそらくは多大の困難を感じたでありましょう。もしまた大事変の生起した後において特に国債の発行方法を変更し、日本銀行の引受にいたしましたならば、あるいは財政行き詰まりの結果ではないかという疑を生じ、国債の信用を害したかもしれません。しかるに昭和7年、最も適当な情勢の下においてこの方法が採用され、すでに国債発行の常識のごとくなっていた時に支那事変が起こりましたので、毫も内外の視聴を驚かすことなく、すこぶる自然にこの方法を続行するだけで済みましたのは、まことに仕合せであると思います。

我が国の内国債は昭和6年末の48億円から昭和13年7月末の132億円に増加しております。すなわちその間に84億円の純発行があったのです。その発行のうちには募集されたものも幾分ありますが、大部分は日本銀行の引受によったものであります。同期間日本銀行の国債所有高は2億5900万円から12億1200万円に増加しております。すなわち増加額は約9億5000万円でありまして、基本の計数に大してはずいぶん巨額の増加でありますが、国債増加額84億円に対してみれば1割1分強に過ぎません。すなわち日本銀行の引き受けた国債の大部分は消化されているのであります。また日本銀行券の発行高は昭和6年の平均10億4400万円から昭和13年7月待つの20億4200万円に増加しています。この比較は大成達観に便利な方法をもってしましたので、増加額9億9800万円が国債所有高の増加に極めて近いのはむしろ偶然の一致であります。その間に正確な函数的の関係がある訳ではありませんが、とにかく大体において国債所有高の増加が通貨発行高増加の主たる原因となっているのであります。この通貨発行高の増加も生産および諸取引の増加に照らしてみれば、決して甚だしい膨張というべきではありません。日本銀行引受の方法による国債の発行は今日までのところ、大体において当初所期の目的を達しております。すなわち財政上いわゆる資金はこれによって調達され、国民はそのために当面大きい苦痛を感じることなく、産業はこれに伴って振興してきたのであります。

国債発行技術上の問題としてこの方法の妙味は、政府資金の散布が国債の消化に先立つという点にあります。募集の方法によれば、まず金融市場及び一般国民から資金を吸い上げるのであります。従ってすでに資金の余裕があるときでなければ楽にできません。財政上の必要から強いてこれを行えば、国民が苦痛を感じるのであります。かくして吸い上げられた資金を政府が使用して散布すれば、それは国民に戻りますけれども、その中間において金融市場および一般国民は窮屈を感じるのであります。しかるに日本銀行引受の方法によって国債を発行すれば、発行の時において一般国民から資金を吸い上げるのではなく、日本銀行が通貨発行権を使用し、新たに資金を造って政府に提供する。政府がこれを使用すればそれだけ国民の間における資金が殖える。その資金は、もし経済上の取引のため必要ならば、その方に使用されて転々するであろうし、その必要を充たしてなお余りがあれば、そのところに資金の余裕を生じて国債の消化に向けられる。その中間において金融は緩和に傾く。国債の発行が資金の余裕を作り、それが経済活動の増進と国際消化との両方面に向けられるのであります。このごとく資金の余裕を作ることが連続して行われるならば、金融の大勢は緩慢に向かい、経済上の資金需要が急激に増加するか、または国債の信用を害するかの原因が無い限り、国際消化も順調に行われ、通貨の状態も妥当に維持されるのであります。

国債発行は概して金融を引き締める原因と考えられています。しかるに昭和7年以後における我が国債の発行が金融を緩和する原因となったので、それをもって従来の経済学が当てにならないということの例にする人もあります。しかしながら国債の発行が金融引き締めの原因となるのは、募集を前提とするからであります。元来国債の発行を募集に限ると限定すべき謂れはありません。ただ従来募集が普通であったから経済学はこれを前提してこの影響を推論したにすぎません。前提の事実が変われば、その事実に即して経済上の根本的理義にさかのぼり解説を求むべきであります。それが経済学の進展拡充であると私は考えております。

発券銀行の国債引受には、右のごとき便宜があります。最近我が国の実情においては、それが顕著な好成績をあげております。然らば従来いずれの国においても国債の発行をなるべく募集の方法に依ろうとしたのは智慧の足りない努力であったか。発券銀行引受の方法をもってすれば、いつでも、どこまでも、国債の発行によって財政経済を楽に処理することができるであろうか。それが可能であるごとく考える人もあるようですが、それは慎重な検討を要することであります。発券銀行の国債引受が好成績を上げうるや否やはその時の一般国情、殊に経済状態によるのであります。またその影響について警戒を要する点もあるのであります。

国債の発行によって政費を支弁するのは、現在の国家経営の負担を将来に残すものでありまして、国運の発展と引当てとする意味においては差し支えないが、程度によって禍の種を残すことになるかもしれません。発券銀行引受の場合にもそれを考慮に入れるべきは申すまでもありませんが、これは発行方法の如何に関わらずして起こるところの問題でありますから、今日はこれに論及いたしません。これから特に発券銀行引受の場合について注意すべき点をお話いたします。

発券銀行の国債引受は当面の財政計画を遂行するにはすこぶる便宜でありまして、飛躍的経綸(けいりん:制度・計画を立てて国家を収めること)を行なわんとする場合には最も適当でありましょう。ただ財政と国力とを調和させる見地よりすれば、現在これを考量すべき基準がほとんど無くなる。そのところに警戒を要する点を生ずるのであります。租税または国債の公募によって政費を支弁することを建前といたしますならば、増税のために国民が苦痛を感じる。また国債の募集がだんだん困難になる。もとより国民の覚悟如何によって大いに可能性の程度を異にするのでありますけれども、その苦痛と困難とを察して国力を考量せざるを得ないのであります。しかるに発券銀行の方法をもって国債を発行すれば、当面国民には何らの苦痛を与えず、経済界に何らの窮屈を感じさせることなしに済むのでありますから、直接に国力を測定すべき途がありません。例えば、数十億円の予算が一挙にして成立する。もしそれが租税および募集国債を財源とするものでありましたならば、国力および国民の覚悟の象徴として深甚の意義を看取すべきであります。しかしながらその財源の大部分が発券銀行の国債引受によるものでありましたならば、国民は当面それによって何らの苦痛も受けないのでありますから、他の方面からの考察を加えずして単に予算成立の事実だけをもって直にこれを国力の象徴と見なすことは当たらないのであります。飛躍的国家経綸の途上において、焦眉の急に対処するためには、当面有数の手段を利用するに遅疑すべきではありません。支那事変に当たり、日本銀行の国債引受という方法が我が国経済上の常識のごとくになっていたことは好都合ではありましたが、長期計画の万全を期するためには国情および事理を正当に認識して冷製の判断に立脚することが望ましいと考えます。

次に注意すべきは国債消化の問題であります。昭和7年以来我が国に行われてきた発券銀行の国債引受なるものは、一旦引き受けた国債が売却されるというところに特徴があり、妙味があるのでありますから、もしその売却が止まって国債が消化されないということになりますならば、単純に財政の必要のために通貨を増発する場合に似た結果を生ずるでありましょう。その結果がいかなるものであるかは従来普通に経済学の教えるところであります。これまた焦眉の急に応ずるためにやむを得ない場合のあることは覚悟しておかなければなりません。国家焦眉の急に応ずるは何よりも重しとしなければなりません。世界戦争中甚だしく通貨の増発を行った国の財政および通貨政策を苛烈に排撃した経済学者もありましたが、私は当時よりしてそれらの学者の着眼の偏狭なることを幾度か指摘したことがあります。ただ当面通貨増発のやむを得ない場合においても、将来の影響を考慮してなるべく後害を少なくするように努めるべきはいうまでもありません。また国家全体の方向を決するに当たり、この点も考慮に入れて軽重を察するべきであろうとおもいます。しかるが故に国債の消化が望ましいと言われるのであります。

しかしながら国債の不消化およびその結果である通貨の増発が少しでも起これば、直にそれを大いに憂慮すべきこととして騒ぎ立てるのは神経過敏と言わなければなりますまい。程度によっては、必ずしも憂慮すべき結果を生ずるものではありません。ただそれが累積重畳して甚だしきに至らないように注意を要するのであります。また国債不消化要因が何にあるかにより、その影響も同一でありません。正当なる経済活動の増進により資金および通貨の需要が多くなり、国債発行による政府の散布資金がその方に向けられ、それで日本銀行における国債の売却が少なくなるのならば、それは国債の不消化であり、その結果として通貨の増発となりますけれども、さようの場合には日本銀行の貸出により通貨が増発させられるべき情勢にあるのでありまして、貸出増加の代わりに国債保有の増加をもってしたということに帰着いたします。発券銀行国債引受によって放出される資金は、経済界の資金流通にも向けられ、国債消化にも向けられる。そのところに妙味が有るとも言われるのであります。経済活動の増進にともなう相当程度の通貨増発は、増発ではありますが、通貨の状態を悪化したというべきものではありません。ただ他に正当な資金の需要があるためでなく、国債そのものを嫌う気分が生じ、それによって国債の不消化が起こりますならば、その結果は憂慮すべきものとなるのであります。

国債消化の見通しということがこの頃しばしば問題にされるようですが、これはいつまで、または何百億円までは差し支えないというように決めることはできない問題だと思います。国家全体の行動、外交方針、財政計画、租税の制度、生産消費の状態、一般通貨政策、為替政策、物価政策によって影響され、財界および一般国民の精神にも大いに関係のある事柄でありまして、諸方面よりなるべく国債消化に都合良き施設をなし、実勢の推移を見て善処する外はないと思います。漫然無限の可能性あるが如く安心すべきではありませんが、今日までのところ、憂慮すべき意味における行き詰まりの徴候はないようであります。

国債消化に関連する方面のすこぶる広いことは只今申しました通りでありまして、今日いちいちこれに論及するわけにまいりませんが、その内の一点についてここに御注意をひき起こしておきたいと思います。それは金利の問題であります。国債消化のために低金利を必要とするというのが最近数年間における通論でありました。日本銀行国債引受の方法が初めて実行された頃には実情に即した考え方でありまして、数年間この方法に進んできたのであります。而して今後もさらにその方針を強化すべしという意見がありますが、低金利が現在のところまで進んだ上において、なおこれを強化するのが果たして国債消化に好都合なるや、否や、私はこれを疑問とするのであります。金融界の一部には金利水準を今より一層低下することに反対の意見もあります。これを一概に金融業者の営利主義に出づるものとして一蹴し去ることなく、国債消化の見地よりも冷静に検討すべきものと思います。現在国債の消化は金融界の国債買受および預金部の国債投資によるものが大部分であります。金融界も、預金部も、預金者があってはじめて国債に向ける資金ができるのであります。金融界が預金利子と国債利子との間に得る利ざやは僅少ではありますけれども、預金の増加にともなう薄利多売主義で国債を保有しているのが大金融業者の実情であります。それで今日まで国債の消化ができているのです。今日は国債利子をさらに低下すべしという意見はほとんど絶無でありまして、金利低下というのは主として預金利子の低下を意味するようです。その結果貸出利率が下がって産業を利益し、預金利子と国債利子との利ざやが大きくなるから金融界の国債保有も多くなるだろうというのが、低金利強化説の趣旨であります。一応もっとものように聞こえますが、このうえ預金利子を低下させては預金の安定性を害しはしないかというのが金融界の一部の懸念するところであります。そうなれば国債の買い入れも安心してできなくなるわけであります。それゆえに、自然の金利低下および特別小売の訂正は別とし、政策的に金利水準の低下をさらに促進することはもはや大いに疑問とすべきものと思います。産業のためには金利の安いだけ宜しいにちがいありませんが、今日では数年前のごとく産業が高金利に厭迫されるということはありません。また郵便貯金は言うまでもなく、銀行預金も多数の預金者に分散し、その内には零細なものがむしろ多いのでありますから、その利子をあまりに低下することは社会政策の見地からもすこぶる考えものと思います。これらの諸点を総合して詳論する時間もありませんから、今日はただ御研究の題目を提供するにとどめておきます。

最後に私が強調力説したいのは国債発行と生産力との関係であります。この点において国債募集の場合と発券銀行引受による国債発行の場合とは大いに趣を異にするのであります。租税および国債の募集による政府の収入は、国民の間にすでに存在するところの資力すなわち購買力を政府に移転するのであります。既存の資力は過去の経済活動の結果としてできているのですから、購買力と生産力との間に自ら近郊が保たれているわけです。その購買力の一部が国民から政府へ移転されるのでありますから、その購買力によって消費される物資の種類には変化が起こるであろうけれども、大体において購買力と生産力との均衡は破れない。しかるに発券銀行の引受による国債発行の場合には、既存の購買力が政府に移転されるのではなく、発券銀行が通貨発行権を行使して新たに購買力を造り、これを政府に提供するのであります。普通の経済活動の範囲において発生する各人の購買力は物資または労務の代償として獲得せられるのでありますから、これを総合して全体の購買力が増加するときは、その半面においてこれに伴う生産力の増加があるわけです。それゆえに購買力と生産力との均衡が保たれるのであります。しかるに発券銀行の創造する購買力は物資または労務の代償として発生するのではなく、通貨発行権の発動によるものでありますから、必ずしも生産力の増加を伴わずして購買力の増加となるのであります。それゆえに購買力と生産力との均衡を破るべき傾向を包蔵するのであります。政府が発券銀行より提供された購買力を使用して物資を消費すれば、国民のいづれかの方面において漸次物資の欠乏を感じるに至るべきはずであります。これを自然に放任すれば物価の騰貴によって生活が窮屈となります。統制を行えば物価の騰貴を抑えることはできるが、もともと物資が足りないのだから消費制限等の形には納税の負担も殖えず、既存の資力を既存の資力を提供するにも及ばないので、差し向きは甚だ楽でありますけれども、諸局物資の欠乏によって生活の窮屈を感ずるに至る。そのところに国民の負担が生ずるのであります。個人でも、国家でも。大事を遂行するには負担なきを得ないということを覚悟すべきであります。当面便利な政費調達の方法あるがゆえに、負担なしに大事を遂行しうるというがごとき錯覚に陥ることを避けなければならぬと思うのであります。

あるいは、発券銀行引受の方法をもって国債を発行しても、それが昇華されるならば、発券銀行の手元に国債が残らないから、募集の場合と同じ結果となる。従って消化のできる間は発券銀行の引受でも特に心配するには及ばないという感想が生じているようです。通貨に対する関係においては誠にその通りでありまして、消化のできる間は通貨の増発となりません。従って通貨の過度な増発にともなう憂慮すべき事態は起こりません。しかしながら生産力に対する関係において、発券銀行の国債引受の影響は、それが消化されるときにも、必ずしも募集の場合と同様ではありません。引受と同時に消化されるならば、それは募集の場合と全然同じ結果になりますが、さようのことが可能であるほどの国情であるならば、発券銀行の引受を待たずして簡単に募集すればよろしい。募集よりも発券銀行引受の発行が楽にできるというのは、政府の資金散布が国債の消化に先立つからであります。その散布するところの資金は発券銀行が新たに想像した購買力でありますから、それが転々して国債の消化に向けられ、発券銀行に収納され、従って通貨の状態は国債引受のなか少し前に戻りましても、政府がその資金を使用するときにおいて、新しい購買力をもって物資を消費したという事実はぬぐい去るわけに参りません。それだけ購買力と生産力との均衡を破るべき傾向が発生しているのです。もし国債が消化されず、通貨が増発のままに残りましたならば、その不均衡の傾向はますます拡大するのであります。国債の消化はその拡大を抑えるのみでありまして、少なくとも一度新しい購買力によって物資が消費されたという事実は厳として存在するのであります。これにともなう生産の増加がなければ物資欠乏に傾く筋合いであります。この点において既存の購買力の移転たる国債の募集を赴くを異にするものであります。

もっとも右は基本的の理義を解説したのでありまして、一国の生産力には大なる弾力性がありますし、実際の事態は他の経済事情と結び合って起こるのでありますから、発券銀行国債引受のあるごとに、必ず直に物資の欠乏をきたすと考えるべきではありません。そういう風に、基本的の理義をもって一本筋に事実を律しようとするのがいわゆる学究の弊といわれるのでしょう。しかしながら長期に渡る趨勢を観察し、見通しのある計画を立てようとするには、基本的の理義を会得してこれに考慮を払わなければなりますまい。現に我が国は日本銀行引受の方法をもって国債の発行を連続すること数年に及び、其の消化が順調に行われて、通貨の状態には甚だしき変化を生じておりませんけれども、漸次物資の不足を感じつつあるのであります。国家経綸のために代消費を必要とするときに、外債によって外国の物資を使用するのでない限り、普通生活上に物資の節約を必要とし、窮屈を忍ぶのやむを得ざることは、常識的達観において明白であります。ただ複雑な貨幣経済の過程において、発券銀行の国債引受というような便法あるがゆえに、ある期間は、その影響が痛切に認知されない。それで、いささかのんきに過ごし来たったかのごとくにも見えますが、貨幣経済上の理義に透徹すれば常識的達観と一致するのでありますから、今や深刻の覚悟をもって時局に対処すべきであります。

ただいま生産力の弾力性ということを申しましたが、これは一般的に消費者側における需要および生産者側における努力の強度によるものでありますけれども、通貨政策上これに影響を及ぼすべき余地もあります。而して発券銀行の国債引受は財政上の便法であると同時に、通貨政策上の手段として生産力を刺激する妙用があります。前に述べましたごとく、我が国において金解禁および再禁止の後生産力に余裕があって消費力がこれに伴わなかった。その時に発券銀行の国債引受が始まったのでありますが、その時における新しい購買力の想像は消費力不足による不均衡を訂正するものでありました。すなわち余裕があって、眠っていた生産能力が、購買力増加の刺激によって活動したのであります。次でその刺激の連発と、為替相場の下落による輸出貿易の増進と、満州事件を景気とする発奮とによりまして、既存の生産力の余裕が活動したばかりでなく、新たに生産力が拡大されてきたのであります。このごとく生産力の弾力性が大いに発揮されましたゆえに、購買力の想像が連続しても不均衡を生ずることなく、財政も、経済も、順調に進行し、国民の生活も窮屈を感じるどころではなく、大体において向上し得たのであります。すなわち日本銀行の国債引受が今日まで好成績を挙げてきたのは、生産力の余裕及びその弾力性の大なる情勢に乗ったからであります。生産力の拡大は主として生産界における物的、人的の要素に依存するのでありますが、日本銀行の国債引受による購買力の創造によりこれを刺激したこともまたこの一因と申してもよろしいでしょう。そのところに因果の関係もあります。今後も国を挙げて生産力の拡充に邁進すべきはもちろんであります。我が国の生産力にはなお拡充の余地の多いことを信じますけれども、生産界における物的、人的要素の関係よりして、一時収穫逓減の傾向を呈することあるべきを考えて置かなければなりません。収穫逓減は必ずしも拡充の行き詰まりではありませんが、生産のために要する資材および努力に比し、得るところの生産物の割合の減少することを意味するのであります。而して消費の需要がこれに関わらず進行すれば、どこかで窮屈を感じることを免れないのであります。生産力の余裕があるか、またはその弾力性の大きい時は購買力の創造による刺激が敏感に働きます。昭和7年以降の情勢はその適例でありました。しかるに、収穫逓減の傾向が現れた後になおその刺激を続けますならば、刺激の効果が少なくなります。先には購買力の不足、生産力の余剰による不均衡を、日本銀行の国債引受によって訂正し来たったのでありますが、今後はそれと方向をことにして、購買力の増加、生産力の収穫逓減によって起こるべき不均衡について警戒を要する情勢に向かわんとするのではないかと思われるのであります。而して生産力の拡充は主として国家経綸のために必要な方面に向かわなければなりませんから、他の方向において国民は一層深刻な覚悟をなし、消費の節約または生産への貢献に努めねばなりますまい。

日本銀行引受の方法による国債の発行は普通経済史上の事実を前提とする考え方によって律することができなかったのでありますが、さらにその今後の影響は最近過去の経過に囚われた考え方をもって単純に見通すこともできません。活眼をもって実勢の推移を直視し、根本の理義に立脚して、妥当の進路に就くことを心がける外はないようにおもわれるのであります。

通貨の発行に厳格な制限がある貨幣制度の下においては、その制約の結果として購買力と生産力との間に概して均衡が保たれます。従って資金の調達さえできれば政策または事業を遂行するのに必要な物資はついてきます。その代わりに資金の調達は楽にできません。いかにして資金を調達すべきかということが主要の問題となります。制度制約の範囲においていかにして資金の流通を図るべきかということが通貨政策上主として苦心の存する所であります。しかるに現在の我が国のごとく通貨の発行にほとんど制限というべきもののない貨幣制度の下においては、資金の調達は比較的楽にできます。日本銀行の国債引受もその一方法でありますし、他に色々の手段もあります。しかしながら通貨発行の自由なる結果、購買力と生産力との間に動もすれば不均衡を生じようとする動きがあります。従って資金の調達はできても、必要な物資は必ずしも楽についてこないことがあります。故に政策および事業の計画は、もとより資金取引を介在するけれども、なおその上に生産会の物的、人的要素に着眼してその規模を考慮しなければなりません。それが政府において資金の予算の外に物の予算を要するということになったゆえんでありましょう。通貨政策上においても、資金の流通は楽にできるが、いかにして購買力と生産力との不均衡を防ぐべきかということに苦心をしなければならぬことになったはずと思います。一般国民も、貨幣制度に変化があったことを忘れて、資金がいくらできるとか、国債の消化が順調であるとか、金融界が平穏であるとかいうごとき資金上の問題にのみ没頭することなく、それだけで安心することなく、国情の観察にも、銘々の計画にも、生産力の消長を究極の対象とするように考え方を転向すべきであります。そのところに経済学、殊に経済理論を活用すべき機会が生じましょう。日本銀行国債引受の意義もこの見地よりして初めて正当に理解されるべきであろうと思うのであります。(終わり)
(昭和13年11月4日京都帝国大学経済学部における特別講演)

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